宗旨

私達の宗旨

浄土宗(じょうどしゅう)

ご本尊様

阿弥陀如来(あみだにょらい、あみださま)

大運寺 ご本尊
阿弥陀三尊
大運寺 ご本尊さま 阿弥陀三尊像

法蔵説話

遙か昔、とある国の王子だった方が、「世自在王如来」という佛と出会いました。
その方は苦しみに苛まれるあらゆる衆生を救おうと決意し、「法蔵」という菩薩となられました
そして、そのためにまずどうすれば良いかと悩みました。
「五劫」(劫というのは遙か長い時間の単位です)の間悩み抜き、
「私はこれからこのような、これが出来る佛になろう」「それが叶えられれば、あらゆる衆生を救うことが出来るだろう」と
全部で「四十八」の誓願を立てられました。
その後「兆載永劫」(計り知れないほどの長期間)の行を経て、その「四十八願」の全てを満たし、今現在
「法蔵菩薩」は「阿弥陀如来」として「西方の極楽浄土」から私達をそのみ光で照らし続けてくださいます。

第十八願

原文 → 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
読み → 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。

私(法蔵)が仏となった後には、あらゆる世界の衆生が、真実のこころをもって深く信じて極楽への往生を願い、十遍「南無阿弥陀仏」と称えたにもかかわらず、往生しないということがないようにしたい、との願です。(唯除五逆誹謗正法については省略します)
「南無阿弥陀佛」と称える・・・即ち阿弥陀如来のことを呼べば、必ず救いましょう。そういう佛に、私はなりましょう。
こういう仏国土・「極楽浄土」を作りましょう、そこに迎え入れた人はこういう「楽」を受けるようにしましょう・・・そういった他たくさんの誓願のうち、この第十八願を最重要視するのは、「佛」が「私達」に「これをしなさい」と示して下さっている願だからに他なりません。
世の中に「修行」というのは数多有るけれども、佛が直接選び取ってくださった「念佛行」だからこそ、「往生之業念仏為先」浄土宗ではこのお念佛を最重要視するのです。

教え

阿弥陀如来の平等のお慈悲を信じ、
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)とお念仏(※仏様のお名前)を称えて、
人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、
お浄土に生まれることを願う信仰です。

お経

お釈迦様(おしゃかさま)がお説きになられた浄土三部経をよりどころとします。

  • 無量寿経 ( むりょうじゅきょう )
  • 観無量寿経 ( かんむりょうじゅきょう )
  • 阿弥陀経 ( あみだきょう )

お釈迦様が伝える阿弥陀様

紀元前5世紀頃、北インド地方で「ガウタマ・シッダールタ」という青年が悟りをひらき、この俗世間の中で「ブッダ」(佛、目覚めた人)となられました。
出身である「シャカ族」の聖なるひと、「シャーキヤ」から「お釈迦様」と呼ばれます。
お釈迦様は、苦しむ人々にも救いと導きをと、様々な比喩・因縁・たとえ話を用いながら、佛への道を示されます。
「対機説法」、目の前の人に一番合った導きをというその教えは八万四千の法門と言われます。
伝道の旅を続けられたお釈迦様は、80歳をもってそのお体は力尽き、「涅槃」(ニルヴァーナ)という肉体の苦しみから解き放たれた状態へ入られます。
しかし、すぐお側でずっとその教えを耳にしていたお弟子さまたちが、その教えを「お経」として残してくださいました。

(テキストデータベース化)

(余談)お釈迦様とそのお弟子さまたちが残された「お経」(大蔵経といます)は、膨大な量に上ります。
しかし実は現在、「テキストデータベース」化されています。
更に世界各地に現存する、何百年も前に人力で書写され、版木印刷された「大蔵経」を画像データベース化し、違いを見つけ系統立てる研究が進められています。
私も細かいことはさっぱりなのですが、凄そうです。
ご興味ご関心のある方は、こちら(SAT大正新脩大藏經テキストデータベース)へ。

そのお経のうち
お釈迦様が入滅された後の世で、佛に相まみえることもなく正しい行を続けることも出来ず、苦しみ彷徨う人がいる。
その人々の為に、「阿弥陀如来」という、すべての衆生を救おうという誓願を立てそれを為し得た佛が居ることを説き示そう。
様々な修行、悟りを得る道があるけれど、「南無阿弥陀佛」の言葉だけは常に保ち続けなさい。
こうお説き下さったのが、「浄土三部経」です。


浄土宗を開いた方

法然上人(ほうねんしょうにん)

法然上人が広める阿弥陀様


お釈迦様が残された八万四千の法門は、すべてが「私たち衆生を佛へと導くため」に「佛になられたお釈迦さま」が説かれた、仏説です。
そこに優劣はありません。ただあるのは、「誰に対して説かれたか」という差です。
法然上人は今の世の中でどうにかこうにか生きている、生きていくだけで精一杯の、数多のお経に説かれている「佛になるための道筋」を走りきれない、この私たちが救われる法門を求められました。
お釈迦様の残された八万四千の法門「大蔵経」を繰り返し繰り返し紐解かれ、またお経について様々なことを論じる沢山の書物も心血を注いで調べてゆかれました。

浄土三部経

その中で出会われたのが「浄土三部経」です。
また、そのうちの一つ「観無量寿経」について書かれた、中国・唐の時代の方「善導大師」が書かれた「観無量寿経疏」(かんむりょうじゅきょう-しょ)です。
そこに説かれた「阿弥陀如来」という佛様のこと、ただ我が名、「阿弥陀如来」の名を「南無阿弥陀佛」と呼びなさい、と。
そう呼ぶ者をかならず救おうと誓われた、佛様の存在を知りました。

只一向に念佛すべし

自分自身の力だけでは「佛」の座は遙か遠く窺うことしか出来ない私達へと、差し伸べられた阿弥陀如来の救いのみ光のことを、法然上人はご自身の生涯をかけてあらゆる人々に教え、広めてくださいました。
このお釈迦様が伝え法然上人が広めてくださった、阿弥陀如来が永劫にも渡る行を経て成就させた四十八の大願を拠り所として、ただひたすらに「南無阿弥陀佛」とお念佛をお勤めします。
これが「浄土宗」の宗旨です。